宗教はみな同じか?

1d143f22ff8d3ba2dd1b9ff7bbe4b8ca_s

宗教はみな同じか?

「わけ登る ふもとの道はおおけれど 同じ高嶺の月を 見るかな」(解説:宗教の入り口はいろいろ違っていても、最終的に到達するところは同じである)と得意顔でいう人がおりますが、そもそも宗教とは、自己が奉ずる(つかえる)教え、つまり、「私を問う」ことであって皆同じではありません。

特に、仏教は「この私が」問題であるとされています。だから、「無宗教」ということが、何か誇らしげに語っている人がおりますが、それは、全く仏教そのものを解っていない人か、解ろうとしない人です。

例えば、体の状態がどこか悪い時は、お医者さんに診てもらうと思いますが、その場合、その病状にあったお医者さんに診て頂くと思います。まさか、お腹の状態が悪いのに眼科に行く人はいないと思います。同じように骨折しているのに、皮膚科に行く人もないでしょう。だから、どの宗教でも良いということにはならないのです。
つまり、「私が」問題とならなければ、いくら手を合わせても何も解決いたしません。この私が今、重病に侵されていることに全く気付いていないのでしょう。何でもかんでも「私が先、私が先」という自己中心症という重病です。

ものごとが順調にいっている時は、非常に穏やかであるが、ひとたび逆境に陥ると「いつもの私」が首をもたげてきます。だから、この私は自分の都合によりどのようにもなる私なのであります。

最近起こった事件でありますが、自分の母親が横で冷たくなっていても、「死亡手続きがめんどくさい」といってほったらかしにしていた事件、あるいは、全盲の女性の人を蹴った事件、あるいは、物言わぬ盲導犬を刺した事件などすべて自分だけのことしか考えない「エゴ」を本質として絶えず自分の願い満たされないと不満ばかりいだいて生活している重病患者が非常な勢いで増えてきています。困ったことです。

ただただ、自分の快楽、欲望のままに生きることに躍起になり「隣の人」、「隣の家」、「隣の町」、「隣の国」、全く知らんふりを決め込んでいます。困っている人がいようとも、苦しんでいる人がいようとも、全くかかわろうと致しません。よく自分のまわりを観察してみて下さい。かなりこの類の連中が増えてきています。

ここで、今一度よく考えて頂きたいと思いますのは、一家の幸福や自分だけの利益の願いばかり祈ったりしてみても、公平な神様や仏さまがそのような「自分勝手なエゴ」を聞き入れて下さるはずがありません。⇒それに気付かず一心に我が身ばかりを祈っている。

これは、結局「エゴ」という無知からおこるのでしょう。
そこを、仏教は、ただただ、自己中心の方向にのみ拘泥している私や、私の家族の方向のみ生きている私が「手を合わせていけるお念仏」に出会うことによって、はっきりと「往生浄土(じょうどおうじょう)」(解説:固執しない世界へと前進されていく)という大きな目的をもち、今までの生活からシフト転換さされて往く生活が待ち受けています。
それを「聞法」といって私自身が問題であり、「私自身を聞く生活」これを聴聞するといって、この私自身にダイヤルを合わさされた生活であります。そうすると、穴があったら入りたい我が身に気付かされ、顔が赤くなる自分に恥ずかしさを感ぜずにはおれないことになるのです。

このエントリーをはてなブックマークに追加

この記事を書いた人

【ぶつぶつ雑記編集部】 住職

一緒に考え、対話することを大事にしています。